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会津という土地に思いを馳せる: 出雲の国
http://aizunokoto.blogspot.com/2014/02/blog-post_2.html
Http:/ www.iokikai.or.jp/kodai.izumo.html. 出雲王国の事が書いてある。8世紀の大和朝廷が、出雲王国を、実在の物ではなく神話にしてしまったという事。なんとなく、会津も似た気配がする。会津にだって5世紀後半から6世紀初頭には古屋敷遺跡という、富の集積と強大な政治・軍事力をもつ権力者の存在があったようだ。 会津は、猪苗代町や坂下町の名前がアイヌ由来という説もあり、どちらかというとアイヌ由来の言葉が多いのかなと思うけど、伊佐須美神社という、何となく他とは雰囲気が違う名前の神社が美里町にある。祭神は伊佐須美大明神(伊弉諾尊、伊弉冉尊、大毘古命、建沼河別命). さらに、葦原中国(出雲王国)という言葉が出てくるが、常世竹花古墳の時に調べた、「少名毘古那」という神が常世国から来て葦原の名つ国を造ったとあるという文言とも繋がってくる。 ちなみにスクナヒコ(少名彦、少名彦名、少名毘古、などの表記がある)すくなひにはアイヌ語方面と関わりがあるらしい。 Http:/ homepage2.nifty.com/aizune/iwahashi-jinja.html.
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会津という土地に思いを馳せる: 5月 2014
http://aizunokoto.blogspot.com/2014_05_01_archive.html
奈良時代は、広義では、710年(和銅3年)に元明天皇によって平城京に遷都してから、794年(延暦13年)に桓武天皇によって平安京に都が遷されるまでの84年間。 狭義では、同じく710年から、784年(延暦3年)に桓武天皇によって長岡京に都が移されるまでの74年間を指す。 奈良時代になると、塩川町域では内屋敷遺跡が大規模に展開していく。そこには仏堂も造営されており、有力層の居宅も置かれていたものと思われる。 そして、奈良時代末頃になると、日橋川に注ぐ田付川を遡ったところに地域有力層の居宅と考えられる鏡ノ町遺跡A・Bが出現する。 この遺跡は9世紀後半に大きく展開し、10世紀末頃まで続いていく。この時期は、会津地方の北部が耶麻郡として会津郡から分立していた時期で、この居宅遺跡には耶麻郡の郡領層が居住していた可能性が高いと言える。 また、9世紀後半頃からは耶麻郡の中心地域と考えられる鏡ノ町遺跡A・Bの周辺から5キロ近く離れた大塩川流域にも居宅が成立し、11世紀前半まで続く。 ここまで調べて、荒屋敷という言葉を何度かキーボードで打ち込むと、変換候補に阿頼耶識が出てくる。 しかし、集落はかなり確認され...
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会津という土地に思いを馳せる: 常世竹花古墳
http://aizunokoto.blogspot.com/2014/02/blog-post_5512.html
縄文時代の「常世式」土器の常世原田遺跡があるのと同じ塩川町に常世竹花古墳がある。 未調査で、築造時代・墳形等は後世の破壊があるので詳細は不明らしい。 とはいえ、常世竹花古墳の辺りは中世城館跡とされているらしい。中世は、古墳時代よりは跡の時代だ。縄文時代から栄えていたこの地が中世も引き続き栄えていたということだろうか。 65288;神話に「少名毘古那」という神が常世国から来て葦原の名つ国を造ったとある)名の通り由緒ある古墳かも?と、こちらのサイトからの引用。 Http:/ www.k3.dion.ne.jp/ skill/page010.html. 少名毘古那は日本神話の神様だ。「古事記」では神皇産霊神(かみむすびのかみ)の子とされ、「日本書紀」では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされる。 日本神話の神様が東北の縄文人だったとなれば、歴史の学会の偉い人は、とんでもないといいそうだ。 発音つながりで、スクナヒコ(少名彦、少名彦名、少名毘古、などの表記がある)すくなひにはアイヌ語方面と関わりがあるらしい。 エスィリアル テンプレート. Powered by Blogger.
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会津という土地に思いを馳せる: 塩川町史をまとめる(奈良時代)
http://aizunokoto.blogspot.com/2014/05/blog-post_202.html
奈良時代は、広義では、710年(和銅3年)に元明天皇によって平城京に遷都してから、794年(延暦13年)に桓武天皇によって平安京に都が遷されるまでの84年間。 狭義では、同じく710年から、784年(延暦3年)に桓武天皇によって長岡京に都が移されるまでの74年間を指す。 奈良時代になると、塩川町域では内屋敷遺跡が大規模に展開していく。そこには仏堂も造営されており、有力層の居宅も置かれていたものと思われる。 そして、奈良時代末頃になると、日橋川に注ぐ田付川を遡ったところに地域有力層の居宅と考えられる鏡ノ町遺跡A・Bが出現する。 この遺跡は9世紀後半に大きく展開し、10世紀末頃まで続いていく。この時期は、会津地方の北部が耶麻郡として会津郡から分立していた時期で、この居宅遺跡には耶麻郡の郡領層が居住していた可能性が高いと言える。 また、9世紀後半頃からは耶麻郡の中心地域と考えられる鏡ノ町遺跡A・Bの周辺から5キロ近く離れた大塩川流域にも居宅が成立し、11世紀前半まで続く。 ここまで調べて、荒屋敷という言葉を何度かキーボードで打ち込むと、変換候補に阿頼耶識が出てくる。
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会津という土地に思いを馳せる: 会津と観音
http://aizunokoto.blogspot.com/2014/05/blog-post.html
会津の仏教のキーワードは観音だと思う。観音とはなんなのか、調べていきたい。 まず、スピリチュアルに傾倒している私が一番最初に連想するのは、アモラ・クァン・インだ。クァン・インとは観音のこと。 アモラという女性は、アメリカ人で、世界的に有名なスピリチュアルリーダーであり、ドルフィンスターテンプル・ミステリースクール 創始者、プレアデス覚醒への道という本の作者だ。 最近、セドナと並んで有名になりつつある聖地、シャスタで活動、2013年に事故で亡くなった。 ちょうど、私が人生に悩んで、このブログを書き始めた頃、穴口恵子という人を知り、実際に彼女の開くイベントに行くようになったのだけど、彼女の話の中から、アモラという女性を知った。 そこで、観音というキーワードが繋がったので、自分の中で印象深い。 ちなみに、ドルフィンスターテンプル・ミステリースクールのミステリーは密教のミステリーのことのようだ。 密教の教義により作られた、十一面観音、千手観音など、変化(へんげ)観音と呼ばれる様々な形の像がある。 Http:/ ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B5%B7.
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会津という土地に思いを馳せる: 勝常寺
http://aizunokoto.blogspot.com/2014/02/blog-post_3336.html
湯川村の勝常寺は国の重の指定文化財に指定されている。木造薬師如来及び両脇侍像は国宝だ。勝常寺は大同2年(807)に伝教大師の論敵として有名な法相宗の碩学徳一上人によって開かれたらしい。 湯川村は地理的には亀ヶ森・鎮守森古墳などの古墳がたくさんある坂下町や、国内最大級の規模をもつ古屋敷遺跡がある塩川町(現在は喜多方市)、若松市にも隣接している。地理的には、会津盆地の平野部の中心と言えるような場所かもしれない。 坂下の古墳は4世紀後半から5世紀の築造、塩川の古屋敷は5世紀から6世紀で、勝常寺は9世紀。11世紀頃になると、関西の政治的に力を持った人たちが会津に来て、新宮熊野神社を建設したり、関西の影響が強まっているようだ。 常世原田遺跡の出土品から、縄文時代から人々が大規模な集団を作っていたらしい会津では、古墳や古屋敷の時代は、まだ地元の人たちで栄えていて、7世紀頃から10世紀頃にかけて、何かが大きく変わったのではないかと思う。勝常寺が出来たのは、9世紀だ。 Http:/ www.good-stone.com/hp/top/qa/qa-84.htm.
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会津という土地に思いを馳せる: 慧日寺
http://aizunokoto.blogspot.com/2014/02/blog-post_76.html
会津仏教文化の発祥の地。平安初期の大同2(807)年、徳一大師が、五薬師の1つとして開創した。開基が明らかな寺院としては、東北地方で最古のもの。 湯川村の勝常寺も徳一大師が807年に開いたとされる。勝常寺は大本山クラスの大寺院である七堂伽藍が備わり、盛時には多くの附属建物が建ち並んで十二の坊舎と百余カ寺の子院を有する一大寺院であったとされる。 示現寺は、大同2(807)年、空海が五峰山慈眼寺として建立したあと、永和元年(1375年)、源翁心昭が護法山示現寺として再興し、奥州一帯に教えを広め三十七ケ寺の末寺を有する名刹として確固たる地位を確立したらしい。 密教というと、立木観音だ。脇侍の二十八部衆、風神・雷神30体の仏像は密教様式を忠実に表現しているそうだ。身丈8m50cmの本尊は弘法大師(空海)が観音菩薩の霊感を受け彫刻したと言われるらしい。30体の眷属が揃っているのは京都三十間堂とこの立木観音堂だけとも言われるらしい。 Http:/ ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E4%B8%80. Http:/ www.aizue.net/index.html.
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会津という土地に思いを馳せる: 塩川町史をまとめる(古代)
http://aizunokoto.blogspot.com/2014/05/blog-post_5831.html
この時期は古墳前期で、塩川町では駒形地区に田中・舟森山古墳、会津若松市に会津大塚山古墳、会津坂下町に亀ヶ森古墳など大型古墳が造営される時期に当たる。 5世紀は古墳中期であり、中国の史書に「倭の五王」が登場する。この時期の塩川町では堂島地区の古屋敷遺跡(国指定史跡)に東日本最大級の豪族居館などが造営された時期である。 古墳後期の6世紀になると、古墳は減少し、前方後円墳はまったく見られなくなる。このあり方は阿武隈川流域や太平洋岸など県内の他地域とは異なる様相を示してくる。 しかし、集落はかなり確認され、会津坂下町の樋渡台畑遺跡では居館後が確認されるなどしているが、不明な点が多い時期でもある。 飛鳥時代(592年-710年)になると遺跡はさらに少なくなり、塩川町域で確認されているものは高森山古墳と内屋敷遺構の一部の遺構群のみとなる。 この時期になると、有力層の墳墓は終末期古墳や横穴墓となり、会津全域でもその現象が確認できる。 梁(りょう、502年 - 557年)は中国の南北朝時代に江南に存在した王朝. エスィリアル テンプレート. Powered by Blogger.
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会津という土地に思いを馳せる: 観音様と現代のスピリチュアル
http://aizunokoto.blogspot.com/2014/02/blog-post_16.html
会津には会津三十三観音があり、今でも巡る事ができる。これまで10世紀以前のお寺を調べて、観音様が会津には多いと感じた。 仏教というと大仏様というイメージだが、会津は、観音様や阿弥陀如様が目立つ。 ちなみに、ウィキペディアによると、大仏(だいぶつ)は、大きな仏像を指す通称。奈良の大仏は盧舎那仏坐像、鎌倉の阿弥陀如来坐像だ。大仏像になる神様は阿弥陀如来坐像が多いようだ。 ちなみに、会津の大仏様は喜多方市に会津大仏という阿弥陀如来坐像がいらっしゃるそうだ。知らなかった。嘉禄3年(1227年)に始まった願成寺に安置されている。 また、会津には慈母観音という大きな観音像が建っている。かなり大きく、会津の平野部からならそのお姿を確認する事ができる。昭和62年に建立された。 Http:/ homepage2.nifty.com/isso/aizu/aizu.html. 540年に始まったとされる恵隆寺(高寺、高寺三十六坊)のご本尊も観音様で、これは弘法大師(空海)の作と伝えられる。 その一つの答えが、アセンデット・マスターではないかと思う。 Http:/ spiritualife2012.blog86....